則天去私 [Matthew]
“I believe that words uttered in passion contain a greater living truth than do those words which express thoughts rationally conceived. It is blood that moves the body. Words are not meant to stir the air only: they are capable of moving greater things.”
(私は思う。情熱を込めて語られた言葉は理路整然と組み立てた思考を表現するものより大きな生きた真理を含む。血が体を動かすのだ。言葉は空気をかき回すだけのものではない。より大きなものを動かす力がある。)
― Natsume Sōseki, Kokoro
森の都
(私は思う。情熱を込めて語られた言葉は理路整然と組み立てた思考を表現するものより大きな生きた真理を含む。血が体を動かすのだ。言葉は空気をかき回すだけのものではない。より大きなものを動かす力がある。)
― Natsume Sōseki, Kokoro
森の都
夏目漱石が熊本につけた愛称。
今では、市民、県民が緑多きこの地をそう呼ぶ。
「吾輩は猫である」や「三四郎」に登場するだけでなく、
「草枕」と「二百十日」は熊本を舞台としている。
漱石は4年3ヶ月、この地に住んだ。
この地で結婚し、子供をもうけ、ロンドン留学への足がかりをつかんだ。
この地で結婚し、子供をもうけ、ロンドン留学への足がかりをつかんだ。
漱石は英語の先生だった。生徒の英語能力向上のため精力的に活動していた。
則天去私
精神的に不安定だった漱石が晩年たどり着いた悟りの境地。
「不自然は自然には勝てないのである。技巧は天に負けるのである。策略として最も効力あるものが到底実行できないものだとすると、つまり策略は役に立たないといふ事になる。自然に任せて置くがいいといふ方針が最上だといふ事に帰着する。」(『断片』)
「自己本位の考えを捨てて、自然の中において物事を見極めようとする姿勢。」
(四字熟語データバンク)
「天に則(のっと)り私を去るの意」(コトバンク)
「自己本位の考えを捨てて、自然の中において物事を見極めようとする姿勢。」
(四字熟語データバンク)
「天に則(のっと)り私を去るの意」(コトバンク)
漱石は「耶蘇嫌い」だったらしいが、この考え方はイエスが説いたもの。
For whoever wishes to save his life will lose it,
but whoever loses his life for my sake will find it.
(自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、
わたしのために命を失う者は、それを得る。) Matthew 16:25
"for my sake"(わたしのために)を "for heaven's sake"(天のために)とすれば
則天去私だ。
イエスキリストという存在が「天の国」そのもの、人として肉をまとった天、
と理解していれば、漱石自身たどり着けなかった則天去私が身近なものとなる。
天が、光が、人となってやってきた、しかし、私たち人間たちは、地を、暗闇を好み、
光の中に入っていこうとしない。
どうすれば則天去私の状態に自分を置くことができるのか。
修行?
いや、違う。
それはとても有益なことであり、確かに天に近づけるが、近づいたとしても、
太陽の方向に一歩か二歩動いたようなもの。
天に届く道はただひとつ。天が近づいてくること。
人間と神とはそれほど遠く、それほど近い距離にある。
宇宙の果てのことなど知る由もない小さな人間のために、
その果てまで創った神がその人間になった歴史が、現実がある。
イエスキリスト、この人は神であり、この神は人である。だから、人は神に近づける。
神は人間なのだ。これが神学的人間学、Theological Anthropology.
これを理解すると、人がどれだけ尊いものであるか、
人の命がどれだけ価値あるものか、わかる。
人に優しくすることは、神を愛すること。人から優しくされることは、
神から愛されていること。
あなたの近くにいる人を、精一杯愛してください。
人の命がどれだけ価値あるものか、わかる。
人に優しくすることは、神を愛すること。人から優しくされることは、
神から愛されていること。
あなたの近くにいる人を、精一杯愛してください。